認知症に備えて遺言書を作った場合でも、作成はその一度限りというわけではありません。年月が流れ、身辺にさまざまな変動があることは当然です。遺言は何度でも作り直すことができますので、環境の変化や財産の変化などに応じて改めることも頭の隅に置いておくべきことです。
ただし、その結果として複数の遺言が残るというケースも考えられます。複数の遺言書がある場合、後に作成された遺言が優先され、前の遺言と内容が矛盾する部分については、後の遺言によって前の遺言が撤回されたものと扱われます。
一見すると合理的なルールですが、実務ではどれが有効なのかが問題になることがあります。特に認知症が関係する場面では大きな争点になります。
問題になる遺言能力
遺言で最も重要なのは、「作成時に遺言能力があったかどうか」です。遺言能力とは、自分の財産の内容や、誰にどのように分けるかを理解し、判断できる能力のことをいいます。
認知症が進行している場合、この能力が否定されることがあります。その結果、後に作られた遺言について「その時点では判断能力がなかったのではないか」と争われ、遺言そのものが無効と判断されるケースもあるわけです。
ここで問題になるのが、「前の遺言を作った時点では元気だったのに、その後の事情が反映されていない」という点です。
たとえば、家族関係が変わっていたり、財産の内容が変わっていたりしても、それが反映されないまま相続が進んでしまうことになります。
つまり、遺言を作り直したつもりでも、その遺言が無効とされれば、意図とは異なる結果になる可能性があるということです。
相続人がいない場合でも意思を実現できる
相続人がいない場合、財産は最終的に国に帰属することになります。
しかし、遺言があれば、特定の人や団体に財産を渡すことができます。たとえば、お世話になった人や公益団体などに財産を遺すことも可能です。
遺言は単に相続人の間で財産を分けるためのものではなく、自分の意思を実現する手段としての役割も持っています。
海外に相続人がいるケース
相続人の中に海外在住者がいる場合、遺言の有無は特に大きな差を生みます。遺言がない場合、不動産の相続登記などを行うには、遺産分割協議書に全員が署名・押印し、さらに印鑑証明書を添付する必要があります。
しかし、海外在住者は日本の印鑑証明書を取得できないため、在外公館でのサイン証明など、手続きが非常に煩雑になります。
一方で、遺言があればこうした手続きを省略できるため、海外在住の相続人がいてもスムーズに相続手続を進めることができます。
実際に争いになる典型的なケース
実務では、次のようなケースでトラブルが発生しやすくなります。
- 高齢になってから特定の相続人に有利な内容に変更された
- 遺言作成時の判断能力について医療記録と食い違いがある
- 遺言の内容が不自然、または極端である
このような場合、他の相続人から遺言は無効ではないかと主張され、裁判になることがあります。
生前贈与との関係にも注意
遺言を考える際には、生前贈与との関係も重要になります。民法の改正により、相続人に対する生前贈与は、原則として相続開始前10年以内のものに限って遺留分の計算に影響することとされています。そのため、古い贈与については遺留分の対象にならないケースもあります。
ただし、遺言がない場合には、これらの整理が不十分なまま争いになることもあり、結果として相続トラブルが複雑化することがあります。遺言によって分け方を明確にしておくことは、このようなリスクを減らす意味でも有効です。
厳格な金融機関の手続き
認知症に関係して特に問題になるのが、金融機関の対応です。近年は本人確認や意思確認が非常に厳格になっており、認知症の症状が疑われる場合には、預金の引き出しや解約ができなくなるケースもあります。
たとえ家族であっても、本人の意思確認ができない限り、自由に預金を動かすことはできません。その結果、医療費や施設費用の支払いに支障が出るといった事態も現実に起こっています。このような状況では、成年後見制度の利用が必要になりますが、手続きには時間がかかります。
遺言は早く作ることに意味があります
遺言は単に作ればよいというものではなく、内容もさることながら、いつ作るかも非常に重要です。認知症が進行してからでは遺言自体が無効とされるリスクがあり、複数の遺言が残ることで争いの原因にもなります。
だからこそ、判断能力がしっかりしている段階で、内容を整理し、適切な形で遺言を作成しておくことが重要です。
認知症への備えとして遺言を考える場合は、できるだけ早い段階で作成すること、内容に無理や偏りがないか確認すること、必要に応じて専門家の関与を検討することが重要です。
遺言は残しておけば安心というものではなく、有効に機能するかたちで残すことがいかに大事なポイントであるかご理解いただけたと思いますので、認知症というリスクを前提に、実務上問題が生じにくいかたちで準備をお考えください。
